ジャリヤーンワーラー庭園~アムリトサルの大虐殺からインド独立へ【アムリトサル編3】


死者379名、負傷者1137名を出した悲劇の場所、ジャリヤーンワーラ庭園を紹介します。黄金寺院から200メートルほど東の場所にあるこの庭園では、1919年4月13日、死傷者1500名以上を出す大虐殺事件が起こりました。俗に言う、「アムリトサル事件」です。当時、イギリスの統治下にあったインドは、イギリスからの独立運動が激化しており、アムリトサル事件前には、アムリトサル市を中心とするパンジャブ州でも大暴動が発生していました。これにより、集会の禁止が通達されることとなったのですが、これに反対する民衆1万2千人が同庭園で集会を行っていたところ、イギリス軍将校に率いられたグルカ兵(ネパール人部隊)により機銃掃射を受けて女性や子供を含む多数の人が虐殺されました。

現在は、美しい庭園の中央には慰霊碑が建てられ、毎日、多くの巡礼者や観光客が訪れる憩いの場所となっています。

慰霊碑

庭園には至るところに、事件当時の爪痕が残っています。レンガ造りの建物には、白色の四角のマークがたくさんあり、その一つ一つが弾痕です。

銃撃の痕
銃撃の痕

庭園内には、てっぺんに「殉教者の井戸」と書かれた建物があります。機銃掃射を逃れるため、多くの人が溺れ死ぬことを覚悟にこの井戸に飛び込みました。

殉教者の井戸(Martyer’s Well)

井戸の横にある三角錐型の石碑には、「To escape the deadly firing, many people fell into this well. About 120 dead bodies were ricovered from it.(機銃掃射から逃れるため、多くの人がこの井戸に飛び込んだ。120の遺体をここから引き揚げた。)」と書いてあります。

庭園内には、「Martyr’s Gallery(殉教者記念館)」があり、事件当時の様子を描いた絵などが展示されています。

Martyer’s Galleryの絵

庭園には、針金で作られたグルカ兵の模型があります。

針金のグルカ兵

慰霊碑を狙うグルカ兵の模型もあります。

慰霊碑を狙うグルカ兵

現在は、ここで大虐殺事件があったことが想像できないくらい、穏やかな時間が流れています。

アムリトサルでの大虐殺は、その後、ガンディーを中心としたインド独立運動に大きな影響を与え、1947年に独立を勝ち取ることとなります。

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